平成いわしや会について

昭和35年に起きた商法登録騒動と「いわしや会」

「平成いわしや会」の前身として、昭和27年(1962年)から昭和44年(1969年)に活動が行われた「いわしや会」があります。この会の発足にはある事件が関係していました。

昭和35年(1960年)、いわしや中山医療機器本舗株式会社(社長中山武雄氏)により、「いわしや」「いわしや医療器」「いわしや中山医療器本舗」の3件が登録商標として申請されたのです。江戸時代から広く使われてきた「いわしや」の名。申請が通った際の影響計り知れないと業界に激震が走りました。

そこで、「医科器械業界において最古の歴史と伝統を有する商号のもつ信用を維持し、且つ商標権の確保に努力する」を規定とした「いわしや会」を設立し、商標登録を阻止し、「いわしや」の名称をまもるための活動をはじめました。この活動は功を奏し、いわしやの名称を守ることに成功しました。そして、その役目を終えたとして、昭和44年にいわしや会は解散しました。

日本医科器械新聞

新しい時代の「いわしや会」設立に向けて

「長年の歳月が過ぎるなかで、いわしやの名称を使用している医科器械事業者の横の連携は希薄になり、また、時代の流れや諸々の事情により、「いわしや」を名乗る業者は昭和35年(1960年)当時に比べて4割以上も減少してしまいました。

こうした流れによって、「いわしや」の名称と伝統が途絶えるのではないかと危惧した西方晃氏(いわしや西方医科器械社長)、川島恒夫氏(いわしや川島医療器社長)、古関伸一氏(本郷いわしや社長)の3氏は、平成7年(1995年)に、いわしやを名称にしている企業間で改めて親睦を深め、いわしやの伝統を次代に継承し、業界の老舗としての輪を築き上げて各企業の発展につなげようと考えました。

3氏は世話人となって、翌平成8年(1996年)早々に、まず手始めとして、関東地区を対象に「いわしや」の名称を使用している企業に呼びかけをし、同年2月16日に東京・本郷のホテル機山館で「いわしや会懇親会(仮称)」を開き、8社が呼びかけに応じて出席しました。

懇親会では、世話人の熱のこもった呼びかけや出席者との議論により、平成8年(1996年)度中に全国のいわしやを名乗る業者に呼びかけて、改めて「いわしや会」を正式に発足させようとの話がまとまります。同年9月7日には、世話人の努力により設立準備会をホテル機山館で開き、発会式の日程、発会式での決議事項の会員資格に該当する会社の一覧の作成や会員名簿、記念講演などについて話し合われましたるなど、次なる時代に向けた「いわしや会」設立の機運が高まっていきました。

「平成いわしや会」の誕生

昭和37年に設立された「いわしや会」は、“いわしや”の商標登録問題が契機になって設立された、いわゆる商標権の確保が目的でした。今回は、“いわしや”の名称を使用している企業相互の親睦と情報交換、そして“いわしや”の起源・歴史などを話し合い、次の世代へといわしやの名称といわしやのDNA を継承することを目的にし、会の名称は『平成いわしや会』としました。

『平成いわしや会』の設立に当たっては西方晃、川島恒夫、古関伸一の3氏の世話人に盛田洋氏(いわしや盛田器械店)が加わり、杏友医科器械商業協同組合のいわしや会の4氏で準備にあたった。また、会の発足に際しては、松本謙一氏(サクラ精機株式会社会長・日本医科器械商工団体連合会会長:当時)の適切な指示と指導を仰ぐなど支援を得て、準備を重ねていきました。

いわしやの名称を使用している全国の45社の企業のうち、「平成いわしや会」の設立趣旨に賛同の上、入会を申し込んだ会社は30社に達しました。こうした多くの温かい支援と理解をバックに、設立に向けた準備は順調に進み、平成9年(1997年)2月15日、東京台東区の池之端文化センターで発会式が挙行されました。発会式には、日本医科器械商工団体連合会・松本謙一会長、東京医科器械商業組合・星幸吉副理事長、杏友医科器械商業協同組合・長島栄吉理事長の3氏が来賓として出席し、世話人代表挨拶、発会までの経過報告に続き会則の決定と役員の選出を行いました。また、祝辞、挨拶のほか会員紹介、いわしやの歴史研究家・山本純美氏の特別講演も行われました。

こうして発足した「平成いわしや会」は、会社名称に“いわしや”を登録している事業者は誰でも入会できる開かれた会となったのです。

平成9年3月1日付 日本医科器械新聞